三菱自動車の「軽」を振り返る(5)
久しぶりの「三菱自動車の『軽』を振り返る」シリーズですが,今回はこれまで触れてこなかったあのメーカーの話が中心となります。
本田宗一郎さんは,明治39年に今の浜松市に生まれました。高等小学校を卒業した大正11年に,東京の湯島にある自動車修理工場「アート商会(アート金属工業として現存)」に丁稚として入ります。6年間そこに勤めた後,昭和3年にのれん分けを許され,故郷の浜松に「アート商会」の浜松支店を設立します。
自動車修理の業務は順調に拡大し,昭和12年「東海精器」という会社を設立してピストンリングの生産を始め,昭和14年には「アート商会」浜松支店を従業員に譲ります(浜松市に現存)。「東海精器」も昭和17年,豊田自動織機の資本を受けて自らは専務に退き,昭和20年の三河地震で工場が倒壊した頃,東海精器(静岡県磐田市に現存)の全てを豊田自動織機に譲り,いったん自動車業界から離れます。
1年休養の後昭和21年に,「本田技術研究所」を設立,2サイクルの自転車用補助エンジンを開発して売り出し,昭和23年には今の「本田技研」を設立します。昭和24年には初の完成型オートバイ「ドリーム号」を発売,昭和27年には軽便な「カブ号」を発売し,販売網として津々浦々の自転車販売店を活用し,やがてこれがヒットするのです。
本田宗一郎は2輪で技術を熟成させ,満を持して4輪に参入すべきという考えがあり,ホンダの4輪開発のスタートは昭和33年になってからでした。その試作車は空冷V型4気筒SOHCエンジンの前輪駆動という凝った作りのものでした。本田宗一郎はオートバイでの経験をもとに,レース活動で商品をよくしていくべきという考えからスポーツカーの開発を,また当時の専務からは,当時の日本の自動車界は商用車のニーズが高く,現在カブを売っている自転車屋さんでも扱いやすい,軽トラックがあるべきだという考えで,トラックの開発を主張し,同時に開発を進めることになったのでした。
ところが国内産業育成のためにこれまで制限していた貿易を自由化すべきだと諸外国から圧力をかけられるようになり,「特定産業振興臨時措置法案」というものが示されるようになります。乗用車業界は,すでに実績のある数メーカーだけ存続させ,他のメーカーは存続するメーカーに合併させて,乗用車産業への進出を制限することで,自動車産業の保護育成を図ろうというものでした。
本田宗一郎はこの法案に反対し,実際に直談判もしたのですが,やはり「乗用車を生産している」という実績が必要だということで,スポーツカーとトラックの製品化を急ぐことになりました。
エンジンは,スポーツカー版は当初から水冷直列4気筒DOHCという,2サイクルエンジンや2気筒や4気筒(マツダ)のOHVエンジンとは異なる高性能なものが選ばれました。当初はこのエンジンで出力45psを目指していたそうです。トラック版は当初,同じ4サイクル4気筒でも,空冷水平対向のものを開発していたようでした。トラックのボディは当初から荷台がボンネット型より広く取れるセミキャブオーバー型とし,エンジンをシート下に無理なく納めるために愛知機械コニーのような水平対向エンジンを選択したのでしょう。トラックのエンジンの出力は30psを目指したのですが,ツインキャブを搭載してもこの構成ではなかなかエンジンの回転が上がらず(それでも7500~8000rpmは回ったらしい),より高回転を目指して直列4気筒DOHC方式を採用,空冷では性能が上がらないことから冷却方式を水冷化したために,結局スポーツカー用のエンジンと同じものになってしまったのだといいます。
昭和37年6月にスポーツカーS360のプロトタイプが完成し,建設中の鈴鹿サーキットで販売店主にお披露目されます。同じ年の10月の自動車ショーでS360とトラックのT360が同時公開されました。実際に販売されたのはT360のみで,スポーツカーの方は特振法対策としてエンジンを500ccに拡大したS500が市販されます(軽のT360と小型車のS500の2機種を出すことにより両方のセグメントで製品を出せるというアピール)。もっともT360のエンジンが驚異の4キャブレター搭載でも結局30psしか当時は達成できず,S360にそれを搭載した場合絶対的な性能の面では物足りなさがあったのかも知れません。
しかしT360の30psという出力は,他メーカーがようやく20psに達した当時の軽自動車業界の中では非常に強力で,大変よく走るトラックだったといいます。しかし高性能なエンジンゆえにその取り扱いは気難しく,ひんぱんにエンジンの調整が必要で,毎日トラブルなく動いてもらわないと困る商用車としては,非常に困った問題ではなかったかと思います。
コストダウンのため,4キャブからツインキャブに,そして最後はシングルキャブレターにまで格下げされてしまいました(出力は変わらず)。YouTubeに残るT360のコマーシャル画面を見ていると,このT360,値下げによりとうとう価格が30万円を切るようになったのですが,当時のユーザーは,これほどの高性能トラックよりも,もっと手のかからない,他社製の軽トラックがいいという判断を下したのだと思います。
しかしホンダは,これからの高速時代を踏まえると,軽自動車といえどもやはり出力30psは必要である,と,このT360から学んだのだと思います。しかしエンジンは,T360のような凝ったものではなく,もっと簡便で,メンテナンスフリーなものがよい,ということも学んだのでしょう。
イギリスの「ミニ」のようなボディをまとう軽乗用車,N360では一転,エンジンを4サイクル空冷2気筒SOHCエンジンという,簡素なものにしました。駆動方式はここでスズキフロンテのようなFF方式になりました。しかしベースとなったエンジンは,「初心者にはおすすめできない」と宣伝されたドリームCB450の450ccDOHC45psショートストロークエンジンを,SOHC360ccにデチューンしたもので,しかしそれでも8500rpmで31psを発生する高出力なものが搭載されたのでした。
その分,振動騒音対策は最小限とし,リヤサスペンションも板バネと割り切り,シフトレバーは左右両ハンドルに対応できる,今でいうインパネシフト式(これが当時は結構奇異な印象があった)でしかも変速機は常時噛合式ドグミッションとオートバイ式,ヒーターこそあるもののエンジンの廃熱利用のため使用中は油臭くなる,などといった徹底したローコスト設計で,価格が31万円台という驚きの安さに抑えられたのでした。
これでは他社はたまったものではありません。ホンダN360の出た昭和42年当時,
・スバル360…20ps
・初代スズキフロンテ…21ps
・初代ダイハツフェロー…23ps
・初代マツダキャロル…20ps
そして,忘れていました三菱の連載だった。初代三菱ミニカがこの年5月にようやく21psにパワーアップしたばかりの頃で,全く他社はホンダに追いついていない状況でした。
否。この年4月にスズキフロンテはモデルチェンジし,なんと先進的だったFF方式を捨て,スバルやキャロルのようなRR方式を一転して採用,エンジンも同じ空冷2サイクルながら,よりなめらかに回る3気筒方式を採用し,出力は25psに向上,高出力モデルはホンダN360と同じ31psをマーク,ホンダの好敵手となったのでした。
他社も負けてはいられません。昭和43年にダイハツはフェローに"SS"と呼ばれる高出力モデルを追加し,ツインキャブ搭載で32psとしました。
これが当時軽でもっともハイパワーだったのですがすぐにスバルに抜かれます。スバル360は「ヤングSS」というグレードを追加,これに搭載されたエンジンは36psで,普通のスバル360も25psまでパワーアップしました。
ホンダのN360もTシリーズと呼ばれるツインキャブ仕様を追加し,スズキの2代目フロンテも"SS"という3キャブ仕様のエンジンを搭載したモデルを追加して,それぞれ36psまでパワーアップしました。
マツダは,満を持して投入したロータリーエンジン車のバリエーションを拡げている頃で,キャロルの4気筒エンジンにツインキャブを装着して高回転化,などという余裕はなかったようです。もっともそのロータリーエンジンを軽自動車にも搭載する計画はあり,これが実現すると他社は枕を並べて討ち死にという状況だったかも知れないのですが,その他社からの反発,運輸省からの指導,それにも増して,360cc1ローターのロータリーエンジンだと振動がかなり激しくなり,実用にならなかったというのが一番の問題で,それがキャロルにハイパワーバージョンが投入されない理由だったのでしょう。
しかし各メーカーが「スポーツバージョン」として30psオーバーの軽乗用車を売り出したのに対し,ホンダはあくまでも普通のバージョンで30psオーバーを達成したという大きな違いがあります。ツインキャブではなく,普通のキャブレターで,なんとか30psを達成したい,というのが,ホンダを除く各メーカーの本音だったのでしょう。
そんな中,三菱造船,ふそうトラックを作っていた三菱日本重工,そしてミニカを作っている我等が新三菱重工は昭和39年に合併し,巨大な三菱重工業に戻ったのですが,会社が大きくなったため小回りが効きにくくなったのか,それとも古くさいコルトに代わる新しい乗用車,コルト・ギャランの開発に忙しかったのか,我等が三菱ミニカは,昭和43年秋に,フェロー対策の水冷2サイクルエンジン車を「スーパーデラックス」として投入,しかしその出力は23psという,まったく他社についていけてない,という有り様だったのでした。
しかし三菱もいつまでも古くさいミニカを作っているわけにはいかず,この頃はコルトFシリーズの経験を活かした,スタイリッシュで多目的に使える軽乗用車の開発を進めていたのでした。
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