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2019年8月25日 (日)

三菱自動車の「軽」を振り返る(7)

 うちに三菱ミニカがやってきたのは昭和46年の3月終わりだったと思います。それまでは中古の初代マツダキャロル2ドア(初期型なので18ps仕様)に父は乗っていました。キャロルはあの小さかった旧規格の軽自動車のサイズで3ボックスセダンを構築しており,リヤにエンジンを持ちフロントのボンネット部分は事実上スペアタイヤスペースになっているため,荷物を入れるスペースがありません。ラゲッジスペースの少なさを少しでも改善するため助手席をダブルフォールディングで折り畳み,そのスペースに荷物が置けるよう工夫されていました。休日の買い物帰りの際,助手席を畳みクラフト紙の買い物袋をそこに置いて家に帰った記憶があるのですが,そうなると3人しか乗れなくなってしまうという欠点もありました(うちは3人家族だったので問題はなかった)。
 従って当時実家への帰省は,パワレスで荷物の載らないキャロルではなく,会社のスバルサンバーで帰ることが多かったように思います。
 父はその会社の車で事故をしてしまい,当てられた人にこのキャロルを貸し出すのですが,「遅くて仕方がない」とこぼされたのだとか。

 そんなこともあり,次のクルマはパワフルで荷物がたくさん乗る方がよい,という判断になったのでしょう。2代目三菱ミニカは我が家のクルマの使われ方にベストマッチだったというわけです。
 昭和46年の春にミニカ'71(マイナーチェンジを受けたあと)の水冷版スーパーデラックスが,キャロルに代わる我が家のクルマになりました。4月に入り保育園に入園した私は,担任の先生に「クルマを買った,クルマを買った」と,アホ子のように言っていたのを覚えています。
 その年夏の帰省はサンバーではなくミニカで帰りました。私はリヤシートに座らされ,途中リヤシートに飲んでいたお茶を大量にこぼし父に怒られたことを覚えています。
 次の年の夏もミニカで帰りました。父の実家と母の実家から野菜やすいか,米などたくさんの食料品を持たされ,ミニカの荷室だけでは足りずリヤシートを倒し,私はその広がった荷室にちょこんと座らされて帰った覚えがあります。その途中,あろうことかタイヤがパンクしてしまったのでした。ミニカのスペアタイヤは割りホイールを金具と鎖で吊す仕組みになっていて,荷室の床にあるシャフト(ゴムでカバーがしてある)を車載工具で回してタイヤを吊り下げたり,吊り上げたりする構造になっていました。
 しかしラゲッジルームには一面簡易なビニールシートが張られていたため,シャフトを回すために結局全部の荷物を下ろしてタイヤ交換をした,という覚えがあります。

 使い勝手がよく,シングルキャブレターながらグロス34psの出力があり走りもよいミニカだったのですが,意外な欠点もありました。ミニカを購入して1年少し経ったころ,幼稚園児だった私は,あろうことか助手席のドアロックをしたまま(わざと?)室内のドアノブを引っ張ったことがありました。普通ならドアロックをしていればドアノブもロックされるか,あるいはドアノブがフリーで動くようになるように思われるのですが,当時のミニカはそのようなことがなく,それっきり室内からドアが開けられなくなってしまい,またまた父から怒られる羽目になってしまうのでした。
 その後修理して元に戻ったのですが,それにしても,幼稚園児の弱い力でドアノブ機構が破損してしまうのは,一体どういうことなのか。怒られるのは私ではなく,三菱自動車の方ではないかと思うのですがいかがでしょう。

 あとは小学1年生のころ,私の友達が,車庫に停まっているミニカの屋根に乗って遊んだことがあり,それ以来屋根がぺこんぺこんになってしまったこともありました。
 もっと大変だったのはその翌年。父は勤めていた会社を辞め,大型免許を試験場でとるためにミニカで通っていたのですがその道中に後ろから追突されてしまったこともありました。
 父の体はなんともなかったのですが,ミニカのボディを修復しても,それ以降バックドアの閉まり方が渋くなってしまったのでした。ボディに歪みが生じてしまい,立て付けが悪くなってしまったのでしょう。
 よく考えてみるとミニカ'70以降,商用車登録のバン形を除いて,ミニカ'70の様な大きなバックドアを持つ軽自動車がしばらく登場していません。おそらくミニカ'70で後突事故があった場合,ボディの修復がうまくいかないケースが頻発したのでしょう。
 ミニカ'70の翌年,昭和45年に登場した軽自動車初のスペシャルティカー,ホンダZは「水中メガネ」と呼ばれるハッチドアを持っていましたが,基本的にはグラスハッチでした。
 昭和48年登場の4代目スズキフロンテはリヤエンジンの上にラゲッジシェルフを持ち,手荷物を後ろから入れることができるようになっていましたがこれもグラスハッチ採用で,フロンテクーペを拡大した昭和52年登場の初代セルボ,FF化して後ろにトランクルームを持つようになった5代目フロンテ,それをベースにした昭和57年の2代目セルボのいずれもグラスハッチでした。
 例外的に昭和47年登場のスバルレックスには昭和49年に3ドアワゴンを追加したようですが,これは商用のバンをベースにしているのでやむなく大きなバックドアにせざるを得なかったと思われます。サイズを拡大した後の昭和53年に乗用ベースで「スイングバック」を追加するのですがこちらはグラスハッチの採用となりました。
 昭和55年に当時の5代目スズキフロンテを意識したダイハツの2代目クオーレが登場するのですが,こちらも4ドア版はグラスハッチの採用でした。
 当の三菱でも,昭和46年登場でミニカ'70をベースにしたホンダZ対抗のスペシャルティカー,ミニカ・スキッパーやミニカ'70の後継となる昭和47年登場のミニカF4はグラスハッチを採用しました。ミニカ'70が後突事故に弱い,ということは軽自動車を作る各社の間で共通の認識となったのだと思われます。
 軽乗用車で再び大きなハッチドアを持つようになったのは,FF化された昭和56年の2代目スバルレックスまで待たなければなりませんでした。当時のレックスの広告では,「高張力鋼板採用」をアピールしていました。軽量化と同時にボディ剛性の向上が図られ,軽自動車でもようやく大きなハッチドアが持てるようになった,ということなのでしょう。

 話をうちのミニカに戻すのですが,後突事故の数か月後に今度は対向してくるクルマ(奇しくも同じ2代目のミニカバンだった)が接近してきて右フェンダーにぶつかってくる,という事故を受けてしまい,それもなんとか修理してもらったものの,うちのミニカは,とうとうまっすぐ走ることすら難しい状況になってしまい,昭和52年春,拙ブログでも以前に取り上げたファミリアプレストに乗り換えることになったのです。

 当時はアフターパーツをいろいろ取り付けて自分好みの仕様にするのが当たり前でした。うちのミニカも,フォグランプに砲弾形ミラー,ナショナルの8トラックカーステレオを取り付けていて,内容的には当時のミニカGLと同じようになっていました。

 2代目ミニカは,まず前述の通り,ギャランGTO風のボディを持つスペシャルティの"スキッパー"が追加され,ツインキャブ仕様はそちらに移行されます。初の"スクープウインドゥ"はその後ホンダCR-Xやインサイト,トヨタプリウスに真似された,ということにしておきましょうか。
 昭和46年春にプラスチック外装部品を多く採用し,やや規模の大きなマイナーチェンジを図り"ミニカ'72"とします。「のびのび生きよう」というCMソングが印象に残っています。

 2代目ミニカの登場後,軽自動車のデラックス化が進行します。スバルは2代目ミニカ登場後の1か月後,スバル360と並売する形でスバルR-2をリリース,ダイハツはFF化し40psエンジンもバリエーションに持つフェローMAXを昭和45年春にリリース,昭和45年秋には「スティングレイ・ルック」を持つ3代目スズキフロンテがリリースされます。R-2とフロンテはミニカ同様,ここで水冷エンジンを追加しています(フェローMAXは先代フェローから水冷エンジン)。
 また,ホンダZ,ミニカスキッパーの登場を見て,スポーツエンジンを持つ軽自動車のスペシャルティ化が進んだのがこの頃で,昭和46年夏はフェローMAXに2ドアハードトップが追加され,同年秋には3代目フロンテよりもさらに低い車高を持つフロンテ・クーペが登場します。

 しかし,ホンダはじゃじゃ馬気味だったN360の反省を活かし,一転してファミリー層を意識し,マイルドな性格を持つ,初代ホンダ・ライフを昭和46年夏にリリース,ここでスポーティ化,デラックス化が行き過ぎていた軽自動車界の動向が変化します。4サイクルエンジンは一転して全車水冷化。初代マツダキャロル以来久しぶりとなった4ドアボディを採用します。
 ホンダ・ライフのようなまろやかな軽自動車という流れは各社を刺激します。同じくFF化しているダイハツフェローMAXは昭和47年秋に,スズキフロンテは前述のとおりグラスハッチを持つ4ドア版がラインナップされた4代目を昭和48年夏にリリースします。スバルR-2の後継となる初代スバル・レックスはスペシャルティとファミリーの2つのニーズをウェッジシェイプのボディにまとめ,昭和47年夏にリリース,4ドアセダンは昭和48年春にリリースされます。
 マツダも旧態依然のキャロルをつくり続けるわけにいかず,当初は1ローターロータリーエンジンを載せる計画だった,ロングホイールベースのシャンテを昭和47年夏にリリースします。もっとも当時のマツダはロータリーエンジンを中心とする公害対策エンジンに注力していたころであり,ボディは2ドアセダン1種のみ,駆動方式はミニカと同じFR方式,そしてエンジンは,すでに商用車に載せていた2サイクルエンジンを水冷化させて搭載という,時代に逆行せざるを得ない部分もありました。

 三菱はこのような他社の動向にどう対応したか。当時の三菱自動車も,マツダ同様公害対策エンジンの開発に注力しており,なかなか軽自動車の開発にリソースを割けない部分があったと思います。そこで,まずは2サイクルエンジンの廃止から着手することとなります。

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