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2024年8月14日 (水)

【夏休み特別企画】きっかり50年ぶりに「サンテレビ」が帰ってきた。

 どんなルータを購入したか気になられる方もおられるかも知れませんが。
 ところで,ケーブルテレビ導入の一番の目的は,神戸にある「サンテレビ」を自宅で見ることでした。

 私の両親が結婚して,兵庫県の西脇というところに居を構えたのが昭和39年の東京オリンピック直前のこと。借家に一人残る母のため,すぐに白黒テレビを購入したとのこと。その頃母が見ていたであろうテレビ局が,

 NHK総合大阪(2ch)/毎日放送(4ch)/朝日放送(6ch)/関西テレビ(8ch)/読売テレビ(10ch)/NHK教育大阪(12ch)

のはずで,その後私が生まれる前後で市内の社宅に転居したとのこと。
 実は私が生まれる直前の昭和41年3月10日に,NHKだけ市内にUHFの中継局ができた(教育47ch/総合50ch)(日本放送協会「1966年版 NHKの概況」1966による)ようですが,この段階では民間放送のUHF化がなされていなかったので,わざわざUHFのアンテナをつけ,さらに10年前の「地上デジタルチューナー」のような「UHFコンバーター」をつけてまでNHKのUHF放送を見る人は,当地では少なかったのではないだろうかと思います。

 それがそうともいえなくなったのが昭和43年から44年にかけて。近畿地方の民間放送局が協力して各地にUHF中継局を作ることになり,西脇局は毎日放送が建設担当になった(関西テレビ放送「関西テレビ放送10年史」1968より)そうです。
 その一方で兵庫県内に親局をもつテレビ局,「サンテレビジョン」が開局したのが昭和44年5月1日。そのサンテレビも含め,合計5局の民間放送テレビが西脇に中継局を開局したのが昭和44年11月8日のことだそう(日本民間放送連盟「民間放送三十年史」1981より)です。
 そして我が家が東芝の「名門」というカラーテレビを購入したのがちょうどこの頃。カラーテレビがやってきたのは,11月になってからの寒い時期,という覚えはなく,9月くらいだっただろうかという気もするのですが,11月開局といっても,実際には10月ごろには試験電波を出していたでしょうから,うちでカラーテレビを導入したのは昭和44年10月だったのかも知れません。
 おそらく「UHFでテレビが見られるようになる」「神戸にできたサンテレビも見られるようになる」ところから夫婦で議論が始まり,「UHFコンバーターをつけるくらいなら,子供(不肖私のこと)の情操のためにも無理してカラーテレビを買おう」ということになったのではないでしょうか。
 実は「名門」カラーテレビがやってきた日の夜だけ,古い白黒テレビもうちに残った状態になっていて,寝る前に今まで使っていたその白黒テレビで何かドラマを見ていた覚えがあります。たった一晩だけ白黒テレビを残すためにUHFのケーブルを分岐するような面倒くさいことはするはずがないので,白黒テレビは(どこに据え付けられていたかわからない)VHFアンテナで見ていたのだろうな,と,今回いろいろ調べてみておぼろげながら分かってきました。

 それはそれとして,その日からサンテレビも含め,カラーで(当時のことなのでまだまだ白黒放送の番組も残っていた)テレビを見ることができるようになりました。
 昭和46年にNHKの神戸放送局がローカルのテレビ放送を始めることになり,それに合わせて教育テレビのチャンネルが動いた(そしてそれ以降NHK教育がきれいに映るようになった)ので,その頃見ていたテレビ局は,

 NHK総合神戸(50ch)/NHK教育大阪(52ch)/毎日放送(54ch)/サンテレビ(56ch)/朝日放送(58ch)/関西テレビ(60ch)/読売テレビ(62ch)

のようになりました。
 とはいうものの上記のとおり他に強力な4つの在阪局もあったので,サンテレビにだけチャンネルを合わせ続けるようなことはありませんでした。しかし,在阪局,特に当時の毎日放送は独立意識が強く,メインネットのNET(現テレビ朝日)やサブネットの東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組を受けず独自制作の番組を流すことが多かったので,それらの番組がサンテレビに流れてきたことがあったようです。
 Wikipediaには「近畿圏内の独立局に番販の形で配信されることもなかった」とあるのですが,故牧伸二さん司会の「大正テレビ寄席」(当然大正製薬はスポンサーから降りていた。MBSでは「サモン日曜お笑い劇場」と称し吉本新喜劇を流していた)を日曜夜にサンテレビで見た覚えがあります。またMBSで水曜19時に故笑福亭仁鶴さんの「こんばんは仁鶴です」(大阪ガス提供。交通事故の撲滅を訴える「チコタン」という映画が番組内で流れトラウマになった(さらにしばらくして通っていた小学校の給食の時間にこの合唱組曲が流れ一層強烈なトラウマになった)ことが…)を放送した関係で,MBSではネットできなかったうつみ宮土理さん司会の「クイズ・チェック!NOW」という番組も見ていたことがあります。
 そういえば岡山の牛乳メーカー,「オハヨー乳業」のCFも当時のサンテレビで流れていたような覚えがあります。お父さんがパジャマ姿で,電気カミソリでひげをそりながら牛乳を飲むシーンを覚えています(嘘を言っているかも知れないので詳細を乞う)。

 そんなサンテレビを見ることができなくなったのが昭和49年7月21日の日曜日のこと。前日終業式で転校を告げ,翌日には家財道具の多くを載せ,伯父(拙ブログでは「クラウン」の話で出てきた人)の運転するそのトラックに乗って,鳥取に旅立ったのでした。
 皮肉なことにそれから約23年後の平成9年春になり,ケーブルテレビの導入により実家では再びサンテレビが見られるようになったのでした。その頃のサンテレビは,平日の昼間に古いB級の日本映画を流しており,確か母親の一周忌で実家に帰り,全ての用事を済ませて岡山に帰る直前に,故小沢昭一さんの「『エロ事師たち』より 人類学入門」という映画を見た覚えがあり,「サンテレビが映っていいなぁ」と思った覚えがあります。

 ところで,今回我が家でケーブルテレビの工事をしたのが,先日令和6年の7月21日日曜日のこと。なんと3月以降は,昭和49年も令和6年もカレンダーの曜日の並びが同じなのですね。というわけで,奇しくもきっかり50年ぶりに,サンテレビが毎日見られる環境に戻ったというわけです。
 とはいうものの,今のサンテレビは当時と違い,在阪局がネットを拒否した東京制作の番組を流すようなこともなく,旧作の日本映画を流すようなこともなくなってしまいました。代わりに増えたのがBSやCSの局かと言わんばかりの膨大な量の通販番組。
 阪神戦試合終了までの中継は阪神ファンには応えられないでしょうがそこまでの阪神ファンではなし(鶴橋でビール片手にホルモンを食べながら阪神の勝ち試合をテレビで見るのはたまらないだろうが,広島でビール片手にお好み焼きを食べながら広島の勝ち試合をテレビで見るのも捨て難い)。土曜15時ごろの競馬中継をいまだに続けているのが,唯一昔と変わらないところでしょうか。

 なんとも複雑なのが,先日サンテレビで,ガンバレルーヤが津山市でロケをしている番組が流れていたのですが,その制作局がなんと鳥取の「日本海テレビ」。自分は一体何をしているのだろうかと,複雑な気分になりました…。

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